喜戚
最早、大陸に夏侯惇の名を知らぬ者はなく、その軍は群雄の中でも目だって大きな存在となっていた。
政に関わる人間の慢性的な不足も解消し、これまでにはなかった余裕のようなものまで生まれた。
夏侯惇が天下を統べる。
その日が遠からずやってくるであろう。
ほかならぬ、呂布自身の力によって。
季節は夏。
二人は馬を駆って、川辺に来ていた。
以前、呂布が一人懊悩した、あの川辺だ。
夏侯惇は清水に掌を沈めると、そっと掬って口に含んだ。
彼の愛馬もまた、その隣で喉の渇きを癒している。
今日、呂布は悩んではいない。
しかし、大きな不安を抱えていた。
愛しい者を手にしてから、まだ数日。
これまでは、その日、その瞬間のことにしか関心を持たなかった呂布の目は、
未来に向けられていた。
夏侯惇の傍にいる。
夏侯惇から、必要とされている。
手に入れたこの幸せが、これから先、いつまで続くだろうか。
もしも夏侯惇が天子に祭り上げられるようなことがあれば、どうなるか。
夏侯惇は馬を放すと、呂布の傍らに来て腰を下ろした。
「どうした?」
呂布の視線は始終夏侯惇を追っていた。
あまりに凝視されるので、夏侯惇は不思議に思ったようだ。
「いや」
ただ一言口にして視線を外せば、夏侯惇は追求しない。
暑い夏だった。
寡黙な呂布の隣で、夏侯惇は、きらきらと光る川面を見ている。
呂布の、気に入りの場所だという。
涼やかで、穏やかな水音だけが耳に届く、美しい場所だ。
夏侯惇の瞳もまた、過去と未来に向けられていた。
己が決起したときのことを思い出す。
志は、あった。
しかし実際は、半ば投げやりな気持ちではじめたことだった。
まさか自分が天下統一を遂げるなどとは、夢にも思っていなかった。
いつか、自分よりも強く気高い志を持つ者との戦に朽ちて、その礎となることを、彼は予想していた。
太史慈と呂布の支えが、夏侯惇を今日まで生かし、結局、彼の予想は外れた。
これからこの軍が、そして自らが赴く先は?
進むべき道は?
夏侯惇の望みは、ただ、民に平穏を与えることだけだ。
自分のことはわからない。
だがいずれ、わからないではすまなくなる。
「元譲」
「・・・ん?」
呂布の声で、夏侯惇は我に返った。
「どうかしたのか」
呂布は再び夏侯惇を見つめていた。
「いや・・・なんでもない」
まるでさっきと立場が逆だ。
それがおかしくて、夏侯惇が笑った。
「そうか・・・」
つられて呂布も表情を緩ませる。
掌で夏侯惇の髪を捕まえて、緩やかな動作で頭を抱きこんだ。
「おい、暑いぞ」
笑みを含んだ声で、夏侯惇が抗議した。
それなのに、呂布はかえって密着して、夏侯惇の頭に頬を預ける。
『幸せ』なんて言葉の意味を、これまでは、考えたこともなかった。
けれど、今。
この感覚を表現するのに、『幸せ』という以外、呂布には思いつかない。
幸せだ。
この上なく。
「なぁ、奉先」
暫くして、夏侯惇がポツリと呟いた。
「来年も、俺たちは、またこうしているだろうか」
夏侯惇の不安の声。
―――誰が、放すものか。
夏侯惇の望みを与えることが、呂布が自ら己に課した責務。
夏侯惇の望みを奪うものがあれば、何者だろうと許さない。
彼が共にいたいと言ってくれるならば、永遠にその望みを叶えよう。
「決まっているだろう」
呂布は、力強く肯定した。
「その先も、いつまでもだ。
お前が望む限り」
この幸せは続く。
だから今もそれを噛み締めろ。欲するがままに。
「・・・そうか」
夏侯惇は呂布の腕の中で微笑んで、安心したように彼に身を委ねた。
不安なんて、この鬼神には相応しくない。
そんなものは己の拳で打ち砕いてこそ、呂奉先だ。
呂布はそう自覚して、自信に溢れる笑みを、口元に刻んだ。
まだ続くのです・・・。
いちゃいちゃする二人が書きたくてつい・・・。
2009年6月5日
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